商人道ノスゝメ ■松尾 匡著・藤原書店・2009年■ |
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待ってました! この著者の前著『「はだかの王様」の経済学』(東洋経済新報社)を読んで以来、私は松尾先生のファンである。待ちに待った新しい本が出たことがうれしい。しかし、新聞広告でこのタイトルを見たとき、なんじゃ、これ!と思ったのも正直なところ。藤原書店からハウツーのビジネス本!? 松尾先生の本じゃなかったら、手にしなかっただろう。 マルクスの疎外論でばっさばっさと現代の社会現象を切れ味鋭く読み解いてくれた前書と同様、今回も社会集団の類型論を武器に、これまた得心のいく切れ味だった。「疎外」にしても「類型論」にしても、鉈のような、時代がかった大きな概念装置であるが、「鉈」にもかかわらずその切れ味はカミソリ。そこがカッコいい。 さて、この「商人道」は「武士道」に対比させた概念として登場する。昨今の殺伐とした道徳なき世を嘆き、日本人がかつて有していた(とされる)「武士道」の唱道がさかんであるが、復権すべきは「商人道」であるとするのが著者の主張である。そもそも武士道といっても、江戸時代、武士は7%ほど、特権階級の倫理である。庶民のあいだでは、近江商人に代表されるような商人道が脈々と受け継がれていた。 著者は、「武士道」を身内集団原理の社会システムとして位置づける。ここでは「身内への自己犠牲的な究極の利他こそが理想の正義」とされ、「身内を裏切ることは最大の悪」という倫理観が導かれる。 いっぽう「商人道」は開放個人主義原理がベースである。取引(商行為)はそれ自体、善であり、「取引すればお互いトクをする」という発想である。利己であり利他である。それは、いきなりの反対給付を求めるものではなく、回り回ってお互いいいこともあるだろうという淡い期待が成り立つ社会である。「一般的互酬性」というらしい。まさに近江商人の「売り手よし、買い手よし、世間よし」の「三方よし」の世界である。この世界では、見知らぬ人とひっきりなしに出会っていくわけであるから、他人に対してわけへだてなく誠実に正直に振る舞うことが個々人の倫理観となる。身びいきであってはいけないのである。でなければ、信頼を得られない。また、世の中、そんなに悪い人はいないという世間一般に対する「薄い信頼」も確保しておかなければならない。疑心暗鬼ではそもそも財の交換は成り立たないからだ。 この二つの原理は、どの社会にも濃淡こそあれどちらも存在しているが、本書では、社会がグローバル化し、高度な市場経済の世の中になった今(経済の市場化を是認するのであれば)、開放個人主義原理によって立つべきであるとする。 著者は、明治以降の歴史を振り返りながら、身内集団原理に巣くうダブルスタンダードの病理を「大義名分─逸脱手段」として鮮やかに解説してくれている。「有機不可分な一大家族」としての国家共同体を掲げた軍国日本では、国家への忠誠(利他)が大義名分とされ、私的な利益追求(利己)はそこから逸脱した大義名分成就のための手段と位置づけられた。手段そのものには倫理の裏打ちはない。そこに展開される倫理なき逸脱は「私利私欲のために歯止めなく暴走」していくことしかなかった。戦中の軍部と支配階層の連中の腐敗堕落した関係はまさにその典型として紹介されている。ファシズムもナショナリズムの誕生メカニズムもこの「大義名分─逸脱手段」理論で明快に説かれている。 直近の小泉・安倍政権の分析は、市場原理主義を徹底的に推し進めることで身内集団原理を破壊しくしたが、結果そこから惹起した社会的不安の解消に、こんどは、ナショナリズムによる身内集団原理の強化を図った。支離滅裂な統合失調症的社会の誕生であった。 2009.8.12(か) |
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