近著探訪(11)

 動的平衡 
生命はなぜそこに宿るのか   ■福岡伸一著・木楽舎・2009年■
 ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。
 淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。
 世の中の人と栖と、またかくのごとし。(方丈記)

 まさに「方丈記」の世界であった。本書のタイトルにもなっている「動的平衡」という概念が、である。話題になった前著『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書)にも章を立てて述べられていたのだが、あらためて本書で深く深く納得させられた。
 ヒトのからだを構成しているタンパク質は日々更新している。食物を摂ると、タンパク質はアミノ酸にまで分解される。「他者の情報」はシュレッダーにかけられたごとく跡形もなくなってしまう。これが消化である。
 このあたりはコラーゲンを事例にして、説明されていた。曰く、コラーゲンをたっぷり摂ったからいって、体内でそのままコラーゲンとして取り込まれるわけではない、と。すべてのタンパク質は、アミノ酸という、無垢な最小単位にまで落とし込まれる。だから、魚や鶏の煮こごりでお肌つるつるにはならない。栄養素がそのままの形態で吸収されることはないのだそうだ。こうした巷間流布する、からだをミクロな部品に還元して考える「機械論」は、徹底的に否定されている。生命とは、もっとダイナミックなふるまいなのだ。
 さて、分解されたアミノ酸は、血流に乗って全身の細胞に運ばれ、細胞内で新たなタンパク質に再合成され、新たな「情報」を紡ぎ出す。からだは、こうした合成と分解を繰り返し、不断に新しくつくりかえられている。一分一秒前の私と、今の私は同じでない。「久しくとどまりたるためしなし」なのだ。しかし、それは鴨長明の無常観とはすこし違うようだ。エントロピーをため込まないように、エネルギッシュに日夜、新陳代謝を繰り返すさまは「無常観」とは一線を画しているようにも見える。
 体内時計の秒針はこの新陳代謝のリズムに基づくとあった。しかし、このリズムも、年老いてくると、緩慢になり、つまり体内時計が遅れ気味になって、エントロピー増大のほうがまさってくる。小学生のころの夏休みは長く感じたものだが、おっさんの1年はあっという間に過ぎてしまうのは、これゆえである。体内時計ではまだひと月の時も刻んでいないのに、世間は1年を刻んでいたりするのである。たしかについこの間、お正月だったのに、もう初夏の香りただよう5月である。浦島太郎状態である。しかも、エントロピーが蓄積気味であるので、動作が鈍くなり、足腰が弱り、人の名前が覚えられず、加齢臭をまきちらす。ああ、悲しい。「久しくとどまりたるところ」も出てくる。淀んでくる。そして、ついには、代謝はほぼ停滞し、エントロピー増大が極まって死を迎える。ああ、やっぱり無常か……。
 著者は言う。 「合成と分解との動的な平衡状態が〈生きている〉ということであり、生命とはそのバランスの上に成り立つ〈効果〉である」
 なんてかっこいい言い回しなんだろう。2009.5.2(か)
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