シンハラ語が解く古代ニッポン  丹野冨雄

「高天原」
古事記の冒頭に出てくる「高天原」。神々がいた天界ですが、これをどう読むかというと、国語学では「タカマノハラ」もしくは「タカマガハラ」といいますね。
だけど古事記にどう書いてあるかというと、一番最初に、「高天原」には注釈がついているんです。太安万呂が編者で、かれが注釈しているんですが、読み方は「天」を「アマ」と読めとある。「高天」を「タカマ」と読まず、「タカ・アマ」と読めと。原典そのものにこういった注釈があるのに、なぜ後世の国語学者の本では、「タカマ」と読ませるか。これがまず疑問だったんです。
 原典に忠実に読めば、「タカマノハラ」とかじゃなて、「タカアマハラ」でなくてはいけない。
 
とすると、「アマハラ」で一つのことば。「タカ」はそれ自体に意味があって、それは相手を称える美称なんです。たとえば、貴乃花。以前は貴花田といっていましたが、その「貴」ですね。「高貴な」という意味ですよね。文字は違いますが、「タカ」にはそういう意味がある。ですから、「アマハラ」に隠された意味があるんじゃないかと考えたんです。そこからアジアの国々に「アマハラ」という場所を訪ねていったんです。これがあるんです。ビルマに。それは「アマラプーラ」という町です。インドには「アマラワティ」という古都がある。
「プーラ」というのは「都市」を意味します。インドのジャイプール、ヒンドゥプールなどの「プール」です。子音で終わる場合は、語尾がけっこう変化しますので、「プーラ」「プール」は同じです。ですから、「高天原」の「ハラ」は、原っぱの「原」をあてていますが、そうじゃなくて「都市」「みやこ」の意味なんですね。じっさい、原っぱにただ神々がいるか?ということです。神々は都にいるんです。
 で、「アマラプーラ」に戻りますと、これは「アマラの都」ということになります。この「アマラ」は「ア・マラ」と分かれて、「マラ」というのは「死」を意味します。「ア」は否定の意味。ですから「ア・マラ」は「不死」となって「不死の都」がアマラプーラ。
 インドの神話によると「不死の都」のてっぺんにいるのはインドラという神。日本でいう帝釈天です。このインドラの都がアマラプーラ。そして、これが「高天原」じゃないかと考えたわけです。「アマハラ」が「アマパラ」となり、「アマラプーラ」となって、という前提ですが。
 ところで、このアマラプーラを頂に抱く山が見つかったんです。神話ですが、山の名は「アマラドーリア」。別名「マハメラ」。「マハメラ」の「マハ」は「偉大な」「大いなる」とかの意味です。だから「大いなるメラの山」ということです。この「マハメラ」はスリランカでは「スメラ」と訛る。「スメラ」の「ス」はエクサラント、素晴しいということです。そしてこの「スメラ」が日本の「皇(すめらぎ)」に通じるんじゃないかと考えた。どうしてもそうなりますよね。スメラの語源に新説が、また、登場!
「高天原」を追っていくと、スリランカに行き着いてしまったわけです。


「まつり」と「勝者」
もうすこし続けましょう。
「まつり」ということば。フェスティバルのまつりではなくて、ここでは神を祀るという「祭祀」です。これをスリランカのシンハラ語でいうと、なんと「マトゥリーマ」。神々に対して捧げることば。日本の祝詞です。動詞が「マトゥラナワー」。過去形だと「マトゥルワー」だから、これなんか日本語そのままですよね。「私、神さんをマトゥルわ」
 もう一つ。「勝者」。これは「ジャヤ」といいます。シンハラ語ではこれに接辞語の「ウィ」を付けて、「ウィジャヤ」。まさに「勝者」という意味です。この「ジャヤ」ということばはそれこそ限りなくあります。さきほどのジャイプールの「ジャイ」もそうです。日本で探すと、沖縄本島の本部半島沖にある伊是名島。地元沖縄では、初代天皇となった神武がここを基点にして日本列島を侵略したといわれています。そして日本統一の前に神武が訪れた宇佐(大分県)。京都の宇治……。日本にはけっこうあるんです。
 こんなことに気づいたのは、スリランカを旅していた時、日本に研修に行くというシンハラ人会ったことです。かれが、日本へ行ったら「ウジャヤマーダ」へ行くというんですね。そんな地名はないよ、というと、「ある」という。そこには神社があって、日本の古い土地で、ガイドブックにもちゃんと載っていると言い切るんです。で、文字に書いてもらうと、Vijayama da。宇治山田(伊勢市)だったんです。ちなみにこの「ウジャヤマーダ」というのはシンハラ語で「勝利の」という意味です。
 そういうことにいくつもいくつも遭遇してきて、とりつかれてしまったわけです。


シンハラ語と日本語
シンハラ語の助詞とか形容詞、基本動詞などには日本語とほんとによく似たところがけっこうあります。が、名詞にはあまりない。基礎語彙といわれる、からだの部位の呼び方にはいくつか類似点がみられたり、日常の決まりきった言い回しには似たものがある。でも、それ以外にはない。なぜかというと、名詞にはほかの地域からの借用語がとても多いんです。パーリ語、サンスクリット語とか北インドからのものがかなり入っている。だから、ことばそれ自体の原型を探っていくとき、名詞なんてどうでもいいんです。名詞は文化語ですからどんどん変わっていきます。雪隠が便所になって便所がトイレになって、とその時代時代で変わるんです。
「何が何して何とやら」の「何」の部分はどうでもいい。大切なのは「が」と「して」「とやら」。それは助詞、助動詞です。これがうまく使えれば、人はものごとをうまく伝えられるんですね。じっさい、シンハラ語をしゃべるとき、ほんとにうまくできてしまう。英語ですと、やっぱり名詞が大切ですし、前置詞だけでは会話できないけれど、日本語とシンハラ語ではできてしまう。
「何が何して何とやら」の「何」が言い表せなかったら、万能の代名詞である「あれ」を入れればいい。「あれ」はシンハラ語では「アラ」となるので、「アラアラアラ」といっておけばほんとに通じてしまう。シンハラ語を覚えるのに必要なのは、些細な助詞がポイントです。シンハラ語でニパータと呼ばれるもので、厳密にいうと、助詞だけでなく接続詞、助動詞、英語でいうところの前置詞のようなものまで含みますが、これさえマスターすれば完璧です。

 スリランカを訪れるようになった最初のころ、こういったどうでもいいような日本語とシンハラ語の似通っている音の部分に興味が湧いた。で、そこから身体名称のような基礎語彙において類似する点にもぶつかった。さらに突き進んでみると、もっとも抽象的だと思える、人間の精神活動にまつわるような領域、「まつり」や架空の存在である「高天原」といったことばに行き着いた。それが似てしまう……。
 これは不思議なことじゃないかしら。

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