鶴見良行私論(11)
【1965年6月サイゴンから──日野啓三と開高健と良行】

 鶴見良行著作集全12巻(みすず書房)は、著者亡年の翌1995年から実質的な編纂作業がはじまっている。生前最後の年、鶴見良行は月刊誌「みすず」(みすず書房)に「ココス島奇譚」を連載していた。その縁もあり、『ココス島奇譚』(1995)の出版に続いて、著作集も同じみすず書房での企画となった。みすず書房編集者たちの熱意が、その流れを後押ししたのだろう。
 著作集は第1巻から12巻まで、ほぼ執筆年代の順に配列されている。しかし、発刊は第1巻からではなかった。第6巻『バナナ』、第7巻『マングローブ』、第9巻『ナマコ』が先に出版された。編纂作業が先に済んだ巻からの出版である。第1巻『出発』(1999)は、出版の順番では4冊目となった。1940年代後半から60年代半ばまでの原稿が収録されている。

 著作集1『出発』(1999)を代表する論文を一つに絞るなら、「ベトナムからの手紙 ある編集者へ」(著作集1、p.167−179)となるだろう。この考えに著作集1の編集委員、鶴見俊輔も反対しないと思う。論文「ベトナムからの手紙」(1965)は、つづく著作集2『べ平連』の反戦市民運動論への文字どおりの「出発」となっている。著作集2は、単著『反権力の思想と行動』(盛田書店、1970)が主たる内容を構成している。

「ベトナムからの手紙 ある編集者へ」(著作集1)は、1965年6月に6日間滞在した南ベトナム(当時)の首都サイゴン(現在のホーチミン市)での体験をもとに書いたものだ。台湾、香港を経ての1週間足らずのサイゴン滞在であった。だが、その6日間に決定的な体験をする。鶴見アジア学の原点といえる体験であった。アジアに本格的に目を向けるきっかけとなった。
 書き出しは、次のようにはじまっている。
“Hさん”
 サイゴンを発って、バンコク、ニューデリーを経て、やっとローマにたどりつきました。サイゴン滞在の六日間は、空港爆破に始まり、若きベトコン兵の公開銃殺に終わるまでの事の多き時間でしたがあなたのお力添えがなかったら、私もあれほど気楽に動きまわれなかったわけで、あなたには心から感謝しています(著作集1、p.167)。

 この「手紙」は、1965年6月、ハーバード大学での国際セミナーに招待されて、アメリカへの途上に立ち寄ったイタリアのホテルで一気に書き上げられている。良行は、搭乗便を待つ飛行場の待合室や滞在中のホテルで多くの絵葉書や短い手紙を書いてきた。この「手紙」(1965)も私信の形式で書かれている。同時に、公開を意識して書かれている。あるいは、公開のために書き直された私信であったかもしれない。

 私信の形式をもつ「ベトナムからの手紙 ある編集者へ」が、公開書簡の形での発表となった背景には、良行と冒頭の「編集者Hさん」との微妙な関係があったと思う。「編集者Hさん」とされる編集者は、現実には存在しない。1965年当時、サイゴンに住んでいた日本人編集者は、(私の調べたかぎり)いない。ただ、言えるのは「編集者Hさん」と呼ばれてもよい別の職業人が、サイゴンに実在したと推測できる。「編集者」になるはずだった人は、元の職業に留まり、編集者にはならなかった。これは、私の推測である。

 1965年6月のサイゴンでの6日間のあいだに良行は、「Hさん」から「仕事を辞めて、出版社に勤め編集者となる」と聞かされていた、と私は推測する。この公開書簡には、当事者ふたりにしか理解しえない微妙な表現がありそうだ。「編集者Hさん」を読売新聞サイゴン支局特派員の日野啓三と私は推測した。その根拠は、日野啓三の自身が書いた、次の文章にある。
「1965年(昭和四〇年)三六歳 赴任とともに内戦は一挙に国際戦争に拡大、米軍の本格介入。自分の国では徴兵直前に終戦になって直接体験することのなかった戦場に直面した。兵士も民衆も悲惨を極め、私も休みなしの取材草稿で心身ともに壊れかける。この溶解しかけた現実感覚はルポでも評論でもなく小説の形でしか書けないと思い至り、小説を書く決心と共に帰国(駐在八ヶ月)」(自身による年譜。日野啓三『ベトナム報道』p.299、講談社文藝文庫、2012)

「小説を書くために新聞記者を辞めるつもりだった」とも読める日野の決意が伝わってくる文章である。南ベトナムから帰国しての日野は、小説家になるために読売新聞社に辞表を提出した。しかし、ソウル支局(1961年)の立ち上げやサイゴン支局(1964年)の立ち上げを難なく成し遂げた日野に代わる人材は、読売新聞外信部にはいなかった。辞職が許されるような状況ではなかった。しかし、本人の希望を受け入れ、仕事を続けながら小説を書くことを認めた。これも、私の推測である。

 1965年6月、良行のサイゴンでの宿泊先は、「編集者Hさん」の借りていた住居である。寝室が2部屋以上の余裕のある住居であったと思われる。新聞社支局付けの大きな家だったのだろう。良行はそこで寝起きした。そして、「編集者Hさん」からの情報を参考に出歩いている。「ベトナムからの手紙」のなかで、サイゴンにある英字新聞社を訪問したときのことが以下のように記されている。 「あなた(編集者Hさん:引用者による註)の紹介で、あの英字新聞の社主に会ったときにも、私はなぜ彼が英字新聞を発行するのかをたずねたものでした。『われわれの国の事情は、あまりにも外国に知られていない。特にアメリカ人には。だから、われわれは、国民の感情から遊離した紙面を作る意思は毛頭ない。だがアメリカ人は、異質のものから学ぶことのおそい人たちだ』というのが彼の答えです。その日の夜、彼の新聞社は、グェン・カオ・キー政権成立直後の強行弾圧政策の発表の記事取り扱いについて、政府情報担当官から、こっぴどく脅かされたのでした。」(著作集1、 p.168-169)

 良行は、「編集者Hさん」から英字新聞社主のベトナム人を紹介され、ひとりで出かけて社主と英語で話し込んでいる。上記の引用は、その情景を記した箇所だ。サイゴンの新聞業界に通じた日本人が「編集者Hさん」だとすれば、彼は日本の新聞社の特派員であった可能性が高い。「編集者Hさん」を私が読売新聞サイゴン特派員(当時)の日野啓三と推定したのは、この事実にもよる。

 日野啓三と鶴見良行の共通の知人に小説家・開高健がいた。開高健は1965年の初めまで朝日新聞社から派遣されてサイゴンに駐在していた。そこで書いた『週刊朝日』への連載は、週刊誌の発行部数を飛躍的に増加させている。開高と良行は、1965年4月、5月にべ平連(ベトナムに平和を市民連合)の呼びかけ人として、東京で何度も会い、酒を酌み交わす関係だった。6月にサイゴンに出かける良行に日野を紹介したのは、開高であったのだろう。
 開高健『ベトナム戦記』(朝日文庫、1990)には、日野による解説「限りなく“事実”を求めて」がある。日野は、開高の著作に解説を寄稿するような関係だった。『ベトナム戦記』に、日野は「日野チン」(p161など)として描かれている。「日野チンは優しくて率直なところがあるから他社ではあるけれど電話で知らせてやった。」(『ベトナム戦記』p.161)
 開高が日野に電話で伝えたのは、1965年旧正月のサイゴンでの最初のベトコン兵士(ベトナム民族解放戦線兵士)公開処刑のことである。

 1965年前半、サイゴンの市場前の広場で、早朝の公開処刑が定期的行われていた。反政府軍ベトコン兵士の公開処刑である。開高、日野は1965年の旧正月に約20メートルからの至近距離でその公開処刑を見ている。
 1965年6月、良行は報道者を装い、公開処刑を見学に出かけている。
「六月二二日午前五時五〇分、サイゴン市の中心部にあるマーケット広場で公開銃殺に処された、若きベトコン、チュラン・ヴァン・ダンもまた、執念を持って殺された若者といえるでしょう。犯罪者が、その犯した罪のつぐないに生命を奪われるときにさえも、祈りの儀式が与えられるというのに、私の眼前二〇メートルのところで行われた銃殺には、まったく何の儀式も宣告もなく、事務的かつ機械的に処理されたのです。」(著作集1、p.170)

 報道者を装うために写真機を胸にぶら下げ、大きな顔をして警察官たちの囲いを通り抜けていく良行の姿が想像できる。外国からの報道記者たちは、至近距離から公開処刑を見学できた。だが、サイゴン市民たちは、離れて見学することしか許されていなかった。
「今、ベトナムを去ってヨーロッパにある私の心には、パリ留学の送別に踊っていた若者たちの無心と『ホー・チ・ミン万歳』と叫んで銃殺されたベトコンの執心だけが刻まれています。前者が亡国の徒で、後者が愛国者というような図式的なことをいおうとしているのではありません。ただ私が気になるのは、この無心と執心の関係なのです。」(著作集1、p.171)

 サイゴンからパリ留学に向かう前夜にパーティで踊る若者たちを良行は見た。彼らと銃殺されながら最後のコトバを発したベトコン兵士の青年を並べて、その関係性を問うている。この思考方法は、良行自身のベトナム戦争での位置や役割を問うことにつながっている。傍観者などありえない。ベトナム戦争の協力者としての自分にどう向き合うべきか。その思考を深め、反戦運動への行動原理をつくる哲学的作業にとりかかった。その結果が、『反権力の思想と行動』(1970)での論考である。60年代後半の良行は哲学者と呼ばれることもあった。

 1965年に小説を書くことを本務とする生活を選択した日野啓三であった。小説『あの夕陽』(新潮社、1975。のち集英社文庫、新潮文庫)で芥川賞を受賞するのは1975年である。良行が最初の編著『アジアからの直言』(講談社現代新書、1974)でアジア学者として活動を開始しはじめるのは、1974年末からである。
 1965年のサイゴンを経験した日野が、幻視的都市小説を独自の方法としたこと。いっぽう良行が方法としての歴史ルポルタージュを採用するに至ったこと。ふたりの想像力の出発点は同じサイゴンにあった。選んだ方法論は異なるが、めざした世界に共通点はありそうだ。二人の作品を読み比べるのも読者の新しい楽しみとなるかもしれない。

「鶴見良行著作集1」鶴見良行
『鶴見良行著作集1出発』
みすず書房・1999年



「ベトナム戦記」開高健
『ベトナム戦記』
開高健著
朝日新聞社・1965年



「あの夕陽」日野啓三
『あの夕陽』
日野啓三著
新潮社・1975年
目次123456789101112131415161718

■庄野護(しょうの・まもる)
1950年徳島生まれ。中央大学中退。学生時代よりアジア各地への放浪と定住を繰り返す。1980年代前半よりバングラデシュやネパールでNGO活動に従事。1989年から96年までODA、NGOボランティアとしてスリランカの都市開発事業に関わる。帰国後、四国学院大学非常勤講師を経て、日本福祉大学大学院博士課程単位取得。パプアニューギニア、ケニアでのJICA専門家を経て、ラオス国立大学教授として現地に2年間赴任。『スリランカ学の冒険』(初版)で第13回ヨゼフ・ロゲンドルフ賞を受賞。『国際協力のフィールドワーク』(南船北馬舎)所収の論文「住民参加のスラム開発スリランカのケーススタディ」で財団法人国際協力推進協会の第19回国際協力学術奨励論文一席に入選。ほか著作として『パプアニューギニア断章』(南船北馬舎)、共著に『学び・未来・NGO NGOに携わるとは何か』(新評論)など。