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『ブータン仏教から見た日本仏教』 ■今枝由郎 著/NHKブックス/2005年■ |
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旧統一教会がらみの、かまびすしい報道を耳にしながら、「善因楽果・悪因苦果」のことが頭の中をぐるぐるめぐっている。よい行いをおこなえばよい結果がもたらされ、悪い行いをおこなえば悪い結果がもたらされる、という因果律のことだ。統一教会の本部組織から「悪因」をあげつらわれ、その帳消しを願う信者たちにつけいって、多額の金銭を巻き上げる霊感商法。法外な免罪符を買ったのに、楽果がもたらされるどころか、あまりに凄惨な苦果を招いてしまっている……。
そもそも正統な宗教においてこうした信仰上の因果律はどう捉えられてきたのだろうか。「善因楽果・悪因苦果」は、もともとは仏教用語であるから仏教的には、いわゆる「業の理論」に由来するということなのだろう。釈迦の教えは徹底した自業自得性・自業自己責任性にあるという。だから先祖の悪因が廻りまわって自分に苦果をもたらすなんてことはない。因果応報が個々人レベルで貫徹する。それが原初の仏教であったというが、私たち(というか、私)が思い描く「仏教」からするとちょっと違うような気にもさせられるのだ。 そのあたりのもやもやを大乗仏教の誕生に立ち返って明快に解きほぐしてしてくれたのが、今枝由郎『ブータン仏教から見た日本仏教』(NHKブックス、2005)という一冊だった。ブータン仏教はチベット仏教(大乗仏教)の流れをくむ正統派として、その視座から日本仏教の「異端ぶり」を徹底して指弾する内容となっている。 著者がいう、日本仏教の「異端ぶり」の一つに、そもそも日本語訳の大蔵経を今もって持っていないことが挙げられている。漢訳のままであるからお経の意味が一般信者にはまったく理解できない。母語に訳された経典を持っていないのは、たしかにヘンといえばヘンだ(いや、アラビア語版しか認めない「クルアーン」があるか)。だから「儀式的、呪術的に読誦するだけ」で、「情緒的に仏の世界に浸るだけ」。そこには仏教の正当な理解なんてあり得ないだろうと。言われるとおりだ。しかし、それ以上に致命的な欠陥として著者が強調するのは「戒律の伝統がすっかり絶えてしまったこと」にあるとする。 時代は平安初期、当時の最高学府である比叡山延暦寺の、最高位の最澄がインド伝来の戒律のすべてを廃止してしまった。そして「山川草木悉皆成仏」という究極の境地が示され、修行の必要はなく、戒を授かることもなく、だれでも(有情に限らず、山や川などとあるから自然物も)成仏できることになった。もともと大乗教で示されていたのは「一切衆生悉有仏性」であって、生きとし生けるものは「仏性」という「仏になる可能性がある」というものだった。それが「成仏」と確約され、最澄以後は、煩悩があろうがなかろうが、修行をしようがしまいが、だれにとっても救済は無条件に約束されることになった。因果律の完全否定である。さらには、法然、親鸞以降は、阿弥陀仏が菩薩であった修行時代になされた善業(ぜんごう)の功徳を私たち凡夫に譲渡(廻向)してくれているから、「因」によらず、「自力」によらず、ただただ念仏を唱えるだけでよしとされる、絶対他力の教えとなった。 いっぽう著者が述べるのは、よき行い(善業)を心がけて最終の「楽果」である悟りに至るまで「自力」で日々努力すること、これこそが「仏教本来の姿勢である」とし、因果律を前提とする。そこからすれば日本の仏教は大きく逸脱してしまっていることは明白ではある。いびつの原因は、著者のガイダンスによってすっきりと理解できたが、気持ちのほうはすんなりとおさまらない。最澄以来1200年近くの時間が流れてしまっており、いまさら戒の不在を、自力の欠如を、あれこれ言挙げされてもこまってしまうのが正直なところなのだ。 ところでキリスト教においても因果律は否定されていたのではなかったか。とくにプロテスタントの人たちとって重要な教義となる「予定説」をみるとそこには因果律は働いていないようにみえる。敬虔な信仰生活を送ろうが送るまいが、善業を積み重ねようが、罪深い日々に淫しようが、救済の是非の要件にはならない。救済される者は、神によって予め定められてしまっているというものだ。内村鑑三はこの予定説について「神は不公平なりとの疑問を出す人は、未だ神の何たるかを知らない者」(『キリスト教問答』角川文庫、1953)と述べている。私たち人間の感覚で不公平だなんて思うこと自体、神への冒涜ということなのだろう。ともあれ価値判断はすべて神に属すのだ。 ユダヤ教の旧約にある「ヨブ記」にしてもそうだ。あれほどに神への信仰に篤く敬虔で善人のヨブが、神のみわざによって、農園を奪われ、子どもを亡くし、全財産を失い、自身は悪性の皮膚病にのた打ち回る。これでもかこれでもかと冷酷な苦難が陸続とヨブを襲う。唖然とするほどの理不尽な神の仕打ちに心底うんざりさせられる。これこそ善因善果なんてクソ食らえといわんばかりの因果律の否定である。この世の不条理を際限なくつきつけるのだ。「義人の苦難」といわれるゆえんである。 イスラム教はどうだろう? こちらは予定説と因果律を同時に抱え込む(小室直樹『日本人のためのイスラム原論』集英社インターナショナル、2002)とあった。これを「宿命論的予定説」というそうだ。「この世の運命、すなわち人間の宿命に関しては、すべて神が決定される。だが、来世の運命に関しては因果律が成り立つ」。つまりはこの世の善因・悪因は来世において楽果・悪果として結実するということらしい。現世は予定説であるが、現世での過ごし方が来世(天国か地獄か)を決定する。 結局、唯一神をかかげる三大啓典宗教の、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教ではどの教えも現世において完結するような因果律は成り立たないことになりそうだ。この世の森羅万象の起源には、人間といったものへの忖度などはありえず、徹頭徹尾、神の意思そのもので成り立っているということであった。 さて、著者の今枝由郎は、五木寛之『他力』(講談社、1998)という著作から「正直者はおおむねばかをみます。努力はほとんどむくわれることはありません」という一節を紹介して、あまりに近視的な尺度での物言いであると批判している。結果の出来(しゅったい)は「数日後なのか、数年先なのか、生きている間なのか、それとも死後、しかも来世なのか(略)」。そうした長いスパンで捉えるべきものと述べる。そして五木の謂いは「仏教の基本思想である業の理論を真向から否定している」と。五木にしては、世の不条理を嘆いてみせただけのことであったろう。「仏教の基本思想を真向から否定」とまで断罪されるには、すこし気の毒な感じがしないでもない。 今枝にとっては、易行を唱導する親鸞(浄土真宗)に深く思いを寄せる五木ゆえに、厳しく当たったようにも思えた。今枝は親鸞を仏教史上最大の天才の一人として認めるものの、「さらば浄土真宗」という一章が本書には設けられているほどに親鸞の教えそのものには否定的だ。そこには菩薩の恩寵による救済理論から導き出される「救ってもらえるという受動的立場」を批判する視点がうかがえる(今枝由郎「解説」日本仏教とチベット仏教の特質、梶山雄一『大乗仏教の誕生』所収、講談社学術文庫、2021)。 善業を積んでその功徳を他人に廻向するという能動的な利他行から、自らの救済を求めて他者の功徳をただ一方的に受け取るばかりでよしとする受動的な姿勢。そこには「個々人が自力で善業を積むという仏教本来の態度」からの逸脱、ひいては「社会倫理の欠如」を指摘するのだった。 幼い頃、祖母から「そんなことしてたらバチがあたりますよ」というフレーズでしばしば叱られたことを思い出す。しかしそれは、まっとうな生き方に少年を導くための“方便”であったはず。因果律を不問にしたことで私たちの「仏教」に合理的な宗教性を担保することができた。その合理性がのちに「近代」との親和性を持ったと思う。信仰世界から離れても、一般的互酬性が成り立つ社会をつくりだすことが可能となり、そして今私たちはそうした世界に生きることができている──。 こうした言いぐさには、「その「奇形」のうえに開き直っているとしか思えない」と著者からはこっぴどく断罪されるであろうが。 2022.12.5(か) |
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