■第3回■■本の値段のこと。つづき■

 前回は「本の値段」のことといいながら新古書店での100円均一のしけた話で終始してしまい、顰蹙を買ってしまった。さて、えー、再販制度下における本の値段。これを本題にしようと思っていたのだ。再販制度とは、「定価販売の一種で、出版界でいうならば、出版社または、販売元が自己の出版物の取引先である取次業者や小売り業者(書店)にたいして、再販売価格を指示し、これを遵守させる制度」のこと。つまりメーカー(出版社)が小売価格を拘束できるという、独禁法の適用除外を受けた制度をいう。
 この制度の存廃が問われている。侃々諤々、かまびすしい議論が闘わされている。いずれにせよ撤廃派・維持派の両陣営が問われているのは「消費者(読者)にとっての利益を最大限に図る仕組みとは何か」ということ。しかしながらその「読者にとっての利益」が一義的に定義されていないところにこの議論の難しさがある。前提がそれぞれなので議論がかみ合わない。金融ビッグバンに始まる一連の規制緩和から、定価販売の見直し・競争原理導入という流れを目論む撤廃派からすれば、少なくとも「利益」とは、「この本を読んで人生の大きな収穫を得たわ」なんていうものではなく、市場経済における計測可能な指標、つまり値段のことだ。本の値段が安いことが「消費者の利益」という最単純モデルに帰した論じ方。いっぽう維持派は言論・文化の保護といった視点からの「利益」を論じる(この視点、「特権意識」「欺瞞」のいやらしさを感じるという批判多し)。当然かみあわない。ともあれ、再販制度の維持・撤廃そのものについては深く立ち入らない。ここでは販売価格を拘束できる再販制度によって消費者は高い本を買わされているのか?を見てみたい。はたして日本の本は高いのか安いのか?
 いきなり結論からいえば日本の書籍は安いと思う。じゅうぶんに安い。悲しいくらいに安い。悲惨なくらいに安い(言い過ぎか)。
 作家の生活ぶりを考えてみたらそうですよね。本一冊書いて得られる印税がまずしれている。『図書』2月号で玉村豊男氏が書いていた。「半年かけて原稿用紙四百枚の原稿を書いて本にしても、定価千円初版五千部で印税は手取り四十五万円。とても生活を支える収入にはならないことは物書きなら誰でも知っている」と。
 日本で1500-1800円ぐらいの単行本がアメリカだと20ドル前後の感じを私はもっている。ちなみにアジアでも本は欧米並の値段になっている。他の物価から考えると割高感は否めない。
 文化通信社のホームページに興味深い話が載っていた。「アマゾンを使ってみて(2)」というコラム。amazon.co.jpのサービスでクロスリンクというのがあるそうだ。翻訳書の紹介ページから該当する原書をリンクしてくれる仕組み。これで翻訳書と原書の価格を較べると、ほとんど翻訳書のほうが安いと報告されている。翻訳料や原版元、著者へのロイヤリティが付加されているはずなのに翻訳書のほうが安い。その原書はといえば数十パーセントのディスカウントがなされているのだ。「しかも、英語書の場合は日本語よりもマーケットが大きい分、発行部数も多いはずである。それでもなお、日本のほうが安いのだ!」と。
 価格競争がないとされる日本の書籍市場。なのに国際的に最低水準にある日本の本の値段。これはどういうことなんだろうか。
 かつて「水・安全・情報」は只だと日本人は考えているなんてことが言われてきたけれど、そのような気風がまだまだあるのだろうか。「情報」を得るには金がかかるもの、という考えがこの情報化時代の真っ直中でいまだ発信者側・受信者側ともに希薄なのか。
 もうひとつ。語弊を恐れずにいえば、出版界のビジネス風土にもあるように思う。出版=ビジネス行為の等式が完全に成立していないところにあるんじゃなかろうかと。あわてて付言するけれど、この等式が成立しなくてはいけないと言っているのではない。ビジネスと考えない(なり得ない)、例えば陳腐な言い回しだけど、いわゆる「志の出版」というのはあったほうがいい。「いい本だけど売れない」という本がその市場性のなさだけの理由で消えてしまったらそのほうが読者の「利益」を大きく阻害してしまう。ビジネス一辺倒でないところに出版の多様性もあるのだろう。
 蛇足になるけれど、こういった「志の出版」を経済的にささえるシステムがアメリカでは用意されているらしい。図書館が買い上げる制度があると聞く。全米の図書館需要で数千部がとりあえず捌ける。ということは「志」だけでも、言い換えれば「市場性はないけれどいい本を発行する行為」は「業」として成り立つような最低限の保証が与えられている。市場メカニズム万能主義のアメリカにおいてこのような制度が確立されているというのは驚きだ。住民からのリクエストやらに応えるのが市民サービスとばかり、街のどこの本屋さんでも平積みされているようなベストセラーを一館で数百部も買い込んでボランティア貸本屋業になり果ててしまった日本の図書館は猛省していただきたい。ほんまに!
 さて、さきほどの等式が成り立っていないと感じるのは、「志の出版」云々もあるけれど、それよりもなによりも利益を得る行為をどちらかといえば後ろめたいと考えているふしがうかがえるところだ。資本主義社会においては理解不能な「利益は善ならず」という精神風土が本の世界を覆っている。ウェーバーのいう「資本主義の精神」が時代錯誤的にも確立していない!
 数年前だけれど、ある版元の本に差し込んであった「通信誌」に本の原価公開という記事が掲載されていた。自社刊行物の刷り部数、組版代、印刷代、用紙代、製本代、印税などなどの経費明細が公開されている。「多くの人の反響をよんだ原価公開は折りにふれて続ける予定です」とある。不思議な行為だなと思った。他業界ではトップシークレットに属する情報の一般公開である。考えられないことだろう。公開することで不当な利益は受けていませんということなのだろうか。理解に苦しむ。
 実は、この原価公開という切り口はほかでも何度か目にしたことがある。
 一例を挙げれば、古い本であるが『小出版社から -創業5年史-』(創林社・1983年)。本書にはこの版元が創業以来5年のあいだに刊行してきた書籍の部数、売上、コスト等が事細かに記されている。創業5年史とあるのだからいわゆる社史のようなもので、その点から考えれば「原価公開」は不自然ではないといえなくもない。だけれど、多くの社史が非売品であることからすればこの一般読者を巻き込んだ「情報公開」は他業界からすれば常軌を逸する。それはそうだろう、例えば住宅メーカーが、自動車メーカーが、化粧品メーカーがその原価を消費者におおやけにしたことがあっただろうか。だけど、この出版界においてはそういうタガがない。だれも不思議に思わない。日本における本をめぐる商行為というのは、ただただ経済合理性だけではない独特のエトスを濃厚に持っているようなのだ。それは「自意識過剰」でもあり、たんなる「無知」でもあり、あるいは「良心」でもある不思議なシロモノなのだろう。その独特のエトスを斟酌して本の価格とやらは論じなければいけないのかもしれない、と思うのであります。(平七丸)

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