■第1回■■「アジア紀行本」のこと■


街道のブライアン
またはマジックバスの話
(黒田礼二/筑摩書房/1983年)
 「アジア紀行本」。実は、ここ何年も、熱心な読者ではなくなっている。
 ということで、本稿をスタートするまえに、「アジア紀行本」を読まなくなった原因をつらつら振り返りながらちょっと言い訳しておきたい。
 それは『深夜特急』(沢木耕太郎)の「第三便」(1992年)が出たあたり。どうもこのころから熱心じゃなくなったような気がする。ちなみに「第一便・第二便」は1986年の刊行。これはわくわくしながら読んだものだ。ほんと面白かった。ところが「第三便」は、うっ?!なんか乗れない…。「第一・二便」の刊行直後、翌年には「第三便」が出るというようなアナウンスがされていたにもかかわらず、結局7年近い歳月が流れたゆえ熱が冷めてしまったのか。待たされたわりにはなんじゃらほいだったのか。こっちの体調不良なのか。あるいは、旅が終わってしまったからなのか。よくはわからないが、巷間のアジアブームにもその原因があったように思うのです。
 その周辺で繰り広げられた怒濤のごとき「あんたもワシも貧乏旅行」というムードに「もうええ加減にしてくれまへんか!」ということだったと思う。語弊を恐れずにいってしまえば、旅行なんて大いなる消費行動以外の何物でもない。まあ、言ってみれば大尽行為であるわけだから、「旅行者(著者)」が宿やリキシャの料金の、その10円20円の単位で高い安いと一喜一憂する真剣な滑稽さは、かなり危うい部分を背負っている。しかしながらその危うさを読者に気づかれずに読みすすめさせることができる、そういった力というか、サービスが書き手側には求められる。いいかえればその虚構を読者が許容できるていどの、楽しませてくれるていどの、仕掛けを語り部はちゃあんと用意しておかなくてはいけない、と思う。
 「第三便」が出たあと、沢木耕太郎へのインタビュー記事のなかで、
 ?『深夜特急』の旅は、貧しさ、時間の使い方、空間の移動の自由さなど、あらゆる意味において徹底性をもった旅だったんです。今旅をしてもお金以外の徹底性を全部欠いている。だからどんなふうに旅しても、物足りないんですね。?(『マルコポーロ』93年2月号)
 と応えている。さきの語り部としての仕掛けとは、いいかえればこの「あらゆる意味における徹底性」ということにあるのかもしれない。お金だけじゃなくてね。

 「第三便」以降、アジアの旅は「あんたもワシも」のノリで始まった。そしてそれは、たんなる貧乏我慢大会に様変わりしてしまった。旅の途上での貧乏標榜への必然性も見えなくなった。極めつけはこの我慢大会を「忠実」に映像表現してしまった猿岩石の出現。わたしゃ、この猿岩石というブームがよくわからず、この名前、「さるがんせき」という読み方も長いあいだ知らなかったのだけど(いまワープロで変換してみたら一発で「猿岩石」と出てきた!)、ともあれかれらの出現で我慢大会という代物を映像で確認させられてしまったあとの羞恥の感は強烈だった。見てはいけないものを見てしまったような。「貧乏」を旅の目的にしてしまったそのストレートさに、そのパフォーマーぶりに、腰が引けてしまったのです。旅には目的なんてなくてもいいと思うし、もちろんあってもいいと思うけれど、ただ「貧乏」を目的にした旅というものを見せられたり読まされたりするのはちとツライ。というか、そんなものが存在してはいかんと思うのであります。なんて、そんなに目くじらたてることでもないんだけど。

 マーク・トウェインの言葉に、「それでも私は洋行帰りの面々が好きである。機知のともなわない平々凡々の説、聞き手をうんざりさせるに妙を得ているその腕前、その愉快で愚劣な自惚れ、想像を派手に生み出す力、その驚くべきケンランたる圧倒的な嘘いつわり、そうしたことがあるので、私は彼らが好きなのである!」。
 そうなのよ。このスタンスで紀行物を読んでました。でもこうした「洋行帰り」が一人や二人のころは楽しいんだけど、みんなが「洋行帰り」になってしまうと…、知人宅で結婚式のビデオを頭から見せられる苦痛のようなもの。薬味がいっしょ。

 さて、いまもって最高の一冊を挙げろといわれれば、『街道のブライアンまたはマジックバスの話』(黒田礼二・筑摩書房・1983年)。この一冊につきます。バス会社の払い下げのおんぼろバスを陸路ロンドンからインドまでころがしていた浮き草稼業ブライアンというイギリスの男の話。適当に旅行者を拾いながら最終地でバスを売り飛ばし一発儲けてやろうという魂胆。こういったバスをマジックバスといって60年代から80年代にかけて貧乏旅行者のいい足になっていた。でも、ソ連のアフガン侵攻をきっかけになくなってしまったそうな。この本はフィクションだけど、トウェインに倣えばフィクション、ノン・フィクションの境界はあってないようなもの。これはほんと空間の移動の楽しさ・スリル、ほら話、バカ話を堪能できる一書であります。これを超えるものをわしゃ知らん。
平七丸)
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